LOGIN第35話 彼女の言葉が、もうわからない
リシアが俺の手を握り、必死に何かを話している。
声は聞こえていた。
いつもと同じ、少し低くて凛とした声だ。怒っているときは速くなり、心配しているときは語尾がわずかに揺れる。何度も聞いてきた声なのに、いまは意味だけが抜け落ちていた。
彼女の唇から流れる竜族の言葉は、知らない音の連なりとして耳へ入ってくる。
魂語も聞こえない。
表向きの言葉と本音が食い違うたび、どちらへ返事をするべきか悩まされてきた。聞こえなければ楽なのにと思ったことも、一度や二度ではない。
けれど実際にすべてが消えると、楽になるどころか、足元が崩れたような恐怖しかなかった。
「リシア、何を言ってるんだ。もう一度、ゆっくり話してくれ」
俺が日本語で頼んでも、彼女には伝わらない。
リシアは眉を寄せ、今度は言葉を区切るように、ゆっくり話した。
それでも意味はわからなかった。
「無駄だよ」
御厨統馬だけが
第40話 俺の名前は渡さない。お前の名前を一緒に探そう「では最初に、如月遥人という名を、私にくれ」俺と同じ顔をした始祖竜は、銀色の瞳を細めながら右手を差し出していた。差し出された掌には武器も術式も見えない。それでも触れてはいけないと、本能が警告している。御厨が始祖竜の名を奪い、その名前に結びついていた力と寿命を四百年間も利用したことを考えれば、ここで求められているのが自己紹介ではないことくらい、万象通訳を失った俺にも理解できた。「断る。俺の名前は、おまえには渡さない」俺が答えると、始祖竜は怒りも悲しみも浮かべず、ただ意味のわからないものを観察するように首を傾けた。「なぜだ。おまえは、私に選べと言った。選ぶためには、他者と自分を分ける名が必要なのだろう。私はおまえの名を選んだ。それなのに、なぜ拒む?」「名前を選べとは言ったけど、誰かの名前を奪えとは言ってない。俺の名前は俺のもので、おまえが欲しがったから渡せるような物じゃないんだ」「名は、物ではないのか?」「形はないけど、勝手に持っていかれたら困るという意味では、物より大事かもしれない」「おまえが名を失っても、身体は残る。記憶も残る。ならば、何が困る?」始祖竜の問いかけには悪意がなかった。俺の名前を奪えば俺が傷つくとわかっていながら、無理やり差し出せと迫っているわけではない。本当に、何が問題なのかわからないのだ。それだけに説明が難しかった。名前の意味など、これまで真剣に考えたことはない。生まれたときに父と母がつけ、物心がつく前から呼ばれていた。気に入っているのかと尋ねられても、ほかの名前で生きた経験がない以上、比べようがない。しかし、この世界へ召喚され、役立たずと呼ばれ、敵国の間者と疑われ、通訳として利用されるうちに、俺の名前を呼ぶ声が持つ意味は少しずつ変わっていった。父が呼ぶ「遥人」と、リシアが呼ぶ「ハルト」は、同じ名前であっても同じ響きではない。フィーネが兄と呼ぶとき、そこには血のつながりとは別の選択がある。御厨が俺を利用しようとして名前を口にするのと、ヴァルガンが呆れなが
第39話 始祖竜が、俺の声で目を覚ました「私は、誰だ?」地の底から響いた問いかけは、声の大きさに反して、ひどく頼りなかった。俺と同じ声だった。息の混じり方も、言葉の最後がわずかに低くなる癖も、自分では意識したことさえない特徴まで同じだった。しかし、それが自分の声ではないことだけは直感でわかった。口から出た音ではなく、胸の内側へ直接流し込まれた意味が、記憶の中にある俺の声を借りて形を得ている。崩れた床の下で開いた銀色の目は、宮殿の大広間が丸ごと収まるほど巨大だった。瞳孔を縁取る光がゆっくりと収縮するたび、始祖宮の壁に刻まれた古代文字が呼吸するように明滅し、その振動は足の裏から骨へ伝わってきた。俺たちは、竜の身体の上に宮殿を建てていたのではない。この宮殿そのものが、竜の眠りを封じる棺だったのだ。「答えるな」御厨が鋭く言った。先ほどまで死にかけていた男とは思えない声だったが、立ち上がろうとして膝をついた姿には、もう聖王の威厳など残っていない。ヴァルガンに後ろ手を拘束され、奪った力も偽りの若さも失った御厨は、息を切らしながら俺を見た。「少なくとも、軽々しく名を与えるな。あれは自分が何者なのかを思い出せない。だから外から与えられた答えを、そのまま自分の定義として取り込む。君が『始祖竜だ』と答えれば、あれは世界の始まりに君臨する竜として目覚める。『神だ』と答えれば、神に似た何かになろうとするだろう」「じゃあ、『ただの大きなトカゲです』と答えたら、少しはおとなしくなるのか」「その冗談が通じる相手かどうか、君が身をもって確かめたいのなら止めはしない。ただし、私を巻き込まずにやってくれ」「さっき助けてくれと言った人間が、もう他人を切り捨てる側へ戻るなよ」「助けを求めたからといって、急に善良な人間になれるわけではない。四百年分の性格は、数分では矯正できないんだ」あまりにも堂々とした開き直り方に腹が立ったが、御厨の言葉を無視できる状況でもなかった。リシアが俺たちの会話を理解できず、険しい顔で御厨へ何かを問いかける。御厨は一瞬だけ黙り込んだものの、
第38話 世界を支配した男が、初めて助けを求めた「助けてくれ、遥人」 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に浮かんだのは同情ではなかった。 御厨統馬は四百年ものあいだ聖王を名乗り、人間も竜人も自分の理想を実現するための道具として扱ってきた。俺から万象通訳を奪い、フィーネを喰らって生き延びようとし、最後には世界中から名前と声を消そうとした男だ。 俺が手を離せば、このまま灰になって消える。 それを因果応報だと言う者は多いだろうし、俺自身も、彼が何の償いもせず生き延びることを望んでいるわけではない。それでも、御厨は死にたくないと口にした。誰にも頼らず、助けを求めるくらいなら相手の意思を奪おうとしてきた男が、みっともなく俺の服をつかんでいる。 だから俺は、その手を振りほどかなかった。「わかった。助ける」 御厨の目が、信じられないものを見るようにわずかに見開かれた。「ただし、勘違いするな。お前を許したわけじゃないし、フィーネを犠牲にするつもりもない。あの子を喰わなければ生きられないというのなら、俺はお前を助けない。お前一人を救うために、代わりに死んでくれとは頼まない」「条件をつけられる立場ではないことくらい、わかっている」 御厨の声は掠れ、急速に老いていく身体に合わせて、老人のものへ変わりつつあった。頬には深い皺が刻まれ、黒かった髪にも白いものが広がっている。俺の服をつかんでいる指先は、乾いた砂のように少しずつ崩れていた。 それでも御厨は、恐怖を隠すためなのか、皮肉そうに口元を歪めた。「ひどい話だな。四百年も生きた男が、あと数分の命を惜しんでいる。私はもっと潔く死ねるつもりでいたし、少なくとも以前の自分は、そう信じていた」「死ななくて済む場所で、格好をつけていただけだろ。本当に死ぬ瞬間になれば、誰だってみっともなくなる。俺だって同じだ」「君は私を慰めているのか、それとも侮辱しているのか」「両方だ。お前には、それくらいでちょうどいい」 御厨は一度だけ息を漏らした。それが笑いだったのか、痛みに耐えかねたのかはわから
第36話 言葉が通じないなら、二人で作ればいい フィーネは泣きながら何度も口を動かしていたが、その声は、俺がこれまで聞いたことのない音の連なりへ変わっていた。 兄と呼んでいるのか、怖いと訴えているのか、それとも御厨を止めてほしいと頼んでいるのか。表情や身体の震えから推測することはできても、本当の意味を確かめる方法がない。「大丈夫だ。俺はここにいる」 俺はフィーネを安心させようとしたが、日本語も彼女には届かなかった。 それでも、何も言わずにいるよりはましだと思い、背中をゆっくり撫でながら同じ言葉を繰り返した。声の意味がわからなくても、敵意があるかどうかくらいは伝わるかもしれない。 フィーネは俺の胸元へ顔を押しつけ、服を強く握った。 リシアはそんな俺たちを守るように立ち、閉ざされた扉を睨んでいた。御厨の攻撃が加わるたび、皇族二人の術式で封じられた扉が鈍い音を立て、控えの間の天井から細かな砂が落ちてくる。 このまま立ち尽くしていても、状況は悪くなるだけだ。 御厨が扉を破る前に、始祖宮から脱出するか、反撃の方法を見つけなければならない。しかし、全員が自分だけの言語を話す今、どちらを選ぶか相談することさえできなかった。 アルベルトは床へ膝をつき、指で何かの術式を描いている。アルトはその隣から説明しようとしていたが、兄には言葉が通じない。アレクシオとヴァルガンも互いに声を荒らげ、自分の考えを伝えようとしているものの、話せば話すほど表情が険しくなっていた。 言葉が通じないだけで、少し前まで共に戦っていた仲間が疑い合い始めている。 御厨の狙いは、ただ会話を不便にすることではない。 相手が何を考えているのかわからない状態を作り、誰もが自分の推測だけで動くよう仕向ける。その推測が外れれば、相手の善意さえ敵意に見える。説明も謝罪も届かないまま、誤解だけが増えていく。「落ち着けと言っても、それすら通じないんだよな」 俺は自分の声が誰にも届かないことを承知で呟いた。 すると、リシアがこちらへ振り返った。 彼女は俺の言葉
第37話 三分後、世界からすべての名前が消える 空に浮かんだ銀色の数字は、百六十七から百六十六へ変わった。 一秒ごとに減っていく数字を見上げながら、俺は御厨が宣言した命令の意味を考えた。 声を奪い、名前を消す。 単に口から音が出なくなるだけなら、さきほど作った身振りや絵で補うことはできる。しかし、御厨は「名前」というものを、俺たちが普段使っている呼び名よりも広い意味で扱っている。 人が自分を自分だと認識するための境界。過去の記憶と現在の身体を、同じ一人の存在として結びつける意味。誰かを大切に思い、その相手をほかの誰でもない一人として呼ぶための印。 それらをすべて失えば、俺はリシアを見ても、愛する婚約者だと認識できなくなるかもしれない。フィーネは自分が俺たちの家族になったことを忘れ、アルベルトとアルトは別々の人間として生きることさえできなくなる。 新しい言葉を作る以前の問題だ。 俺たちは、自分が誰なのかという出発点まで奪われる。「止める方法はないよ」 黒い巨竜となった御厨の声が、夕暮れの空から降ってきた。 世界中の言葉が個人ごとに分断された今でも、御厨の日本語だけは俺へ通じている。自分だけが命令する側へ残るため、俺との会話も意図的に維持しているのだろう。「始祖竜の力、万象宣命、そして君から奪った万象通訳。この三つがそろったことで、私の言葉は世界そのものへ意味を与えられるようになった。いまさら簡単な絵を作ったところで、その絵を誰が描いたのか、自分が何を意味として受け取ったのかさえ忘れる」「お前は忘れないのか」「もちろんだ。命令を出す者が自分の名を失えば、世界の秩序を維持できないからね」「随分と都合のいい秩序だな。世界中の名前を消して、自分の名前だけは残すのか」「誰か一人が基準にならなければ、共通の意味は成立しない。私が唯一の声となり、唯一の名となる。その声に従う限り、誰も誤解せず、誰も裏切らず、争う必要もない」「それは言葉じゃない。ただの命令だ」「言葉は、相手を動かすために生まれた
第35話 彼女の言葉が、もうわからないリシアが俺の手を握り、必死に何かを話している。声は聞こえていた。いつもと同じ、少し低くて凛とした声だ。怒っているときは速くなり、心配しているときは語尾がわずかに揺れる。何度も聞いてきた声なのに、いまは意味だけが抜け落ちていた。彼女の唇から流れる竜族の言葉は、知らない音の連なりとして耳へ入ってくる。魂語も聞こえない。表向きの言葉と本音が食い違うたび、どちらへ返事をするべきか悩まされてきた。聞こえなければ楽なのにと思ったことも、一度や二度ではない。けれど実際にすべてが消えると、楽になるどころか、足元が崩れたような恐怖しかなかった。「リシア、何を言ってるんだ。もう一度、ゆっくり話してくれ」俺が日本語で頼んでも、彼女には伝わらない。リシアは眉を寄せ、今度は言葉を区切るように、ゆっくり話した。それでも意味はわからなかった。「無駄だよ」御厨統馬だけが、俺の知っている日本語で話しかけてきた。発音も、言葉の間も自然だった。四百年前の人間とは思えないほど、現代の日本語に近い。俺から奪った万象通訳が、時代による言葉の違いまで埋めているのだろう。「万象通訳は、単語の意味を置き換えるだけの力ではない。相手が何を伝えたいのか、言葉になる前の意思まで読み取り、君が理解できる形へ変換していた。魂語を聞けたのも、その力があったからだ」「返せ」「返す理由がない。これは本来、私の万象宣命を完成させるために作られた力だ。君は器として育てられ、必要な意味を集める役割を果たしたにすぎない」「勝手に役割を決めるな。俺はお前のために誰かの話を聞いてきたんじゃない」「だが、結果として君は私に必要なすべてを集めた。人間の言葉、竜族の言葉、古代魔術の文法、魂へ直接届く声。君が築いた理解の道は、いまや私のものだ」御厨の胸に埋め込まれた銀色の核が強く輝いた。その光へ吸い込まれるように、俺の中に残っていた言葉の感覚がさらに薄れていく。